東日本大震災被災地支援活動報告

■ 小山 賀己 先生「東日本大震災医療支援に参加して」
<4月20日(水)~4月22日(金)>

平成23年3月11日、金曜日、午後3時過ぎ医師会館での会合が終った。この日が私の人生の特別な日になろうとは、その時、予想だにしなかった。小生のクリニックに戻る車中のラジオは、 未曾有の大地震が東北地方に発生したことを繰り返し伝えていた。急いで帰り、テレピに見入る。そこには、映画でしか見たことがない様な巨大な津波の映像が。これって、本当なの? 本当にこれがこの日本、東北に起きているの?

今、平成23年5月3日現在、警察庁がまとめた東日本大震災で亡くなられた方は、1万4,755名。警察に届け出があった行方不明の方は1万706名。宮城県の死亡者は8,865名、行方不明の 方6,444名と報告され、12万5,000名余りの人たちが未だに避難生活を余儀なくされています。

平成23年3月11日、金曜日。その後私は普通に外来診療を終え、夜遅く帰宅。診療の合間に東京に住む長男に安否確認のメールをした。電話は既に繋がらず、メールも1時間ほどかかっただろうか、 無事だが電車の中で暫く閉じ込められ、会社から徒歩で帰宅した、と。これは、やはりただ事ではないぞ。心が穏やかでない。

3月11日、当日から、テレビのレギュラー番組はほとんど全て中止となり、地震直後に起こった巨大な、悪夢の様な津波の映像が繰り返し、繰り返し流され、今何名の方が亡くなられ、 何名の方が行方不明である。と朝から夜まで、そして休むことなく夜から朝までメディアは報道を続けた。

この大惨事を目の当たりにして、祈ることしか出来ない自分。何もしてあげられない医者とは何であろうか。苦しみ、病んでいる人を助けよう。少しでも苦しんでいる人を慰めよう、と 心に誓い医者になった己は今何処に行ってしまったのか。日常診療を続けながら、我が医院に通院される患者さんの顔と被災地の方の顔がダブる。今すぐにでも被災地に行きたい。行って、 着の身着のままで被災に遭われた方に手を差し伸べたい。怪我された方の治療に当たりたい。

何故これほどまでに、この度の震災が気になったのでありましょう。何故ここまで思い詰めたのでありましょう。

開業して12年が経ちました。医師になり20年近く病院勤務を続け、ほぽ毎日、癌の患者さんと対峙し治療に当たって参りました。毎日が戦場であり、戦争でありました。大袈裟ですが、 私はその積もりで働いておりました。

しかし、開業後は診療内容、患者さんは一変致します。コンビニ患者、コンビニ受診、コンビニ診療と云われる毎日。勤務医時代と違った慢性疲労が全身を被い尽くし先が見えなく なっていました。

数年前より、秋、紅葉の頃に東北へ旅するようになりました。東北のお酒、肴、人情に触れ、人生を振り返ってみる。青森、秋田、岩手、山形、宮城と旅を続け東北の地がよその地と 思えなくなっていました。

平成23年3月13日、兵庫県医師会会長 川島龍一先生より「東北・関東大震災」の災害支援アンケート 協力方依頼についてと題したFaxが参りました。自院の診療を犠牲にして 災害支援に行くべきか、行かざるべきか。心が揺らぎます。自院の診療、患者さんもいる。しかし、今しか出来ない事がある。『行こう!行って、少しでも安心と安らぎを差し上げよう』 3月16日に参加する旨の返事を致しました。4月20日、水曜日に出発する一月以上前の事です。この一月の聞に、予期せぬこと、片付けなければならないこと、そして、準備しなければならない ことが沢山ありました。被災地の情報はネットを通してかなり詳しく毎日調べました。福島原発の被災並びにその後の人災とも思われる事故は真に予期せぬ事であり、残念な事です。 この原稿を書いている5月3日にして全く予断を許さない状況にあります。原発事故は起きない。たとえ起きても大惨事には至らない、とは妄想であった様な気が致します。

3月16日から4月20日まで、一度決めた災害支援の決心を揺るがし続けたのは原発事故でした。福島原発より支援地である宮城県石巻市まで100km以上離れているにも関わらずです。 また余震の大きさ、多さに気持ちが揺らぎます。4月7日、木曜日23:32宮城県沖を震源地とするM7.4の大余震。仙台地方を中心に震度6強が観測されました。

自院は、休診とはせず代診を置く事にしました。日頃、顔すら出さない医局にお願い致しました。医局を軽視している訳でありません。田舎医者となった自分を晒す勇気がないだけです。 久方ぶりに神戸大学第二外科医局に電話を入れました。教授秘書の方に東北大震災に医療支援に行くこと、数日間代診をお願いしたい旨等を説明し、半日お返事を待ちました。

返事は、予期せぬものでありました。大北教授が快諾して下さり、医局が出来る限りのback upをして下さると。本当に勇気を頂きました。

妻を含め家族にも事情を説明しました。何事においても家族の同意、賛成が最も難しく思われます。この度は最終的には全員賛成してくれましたが、反対する者の気持ちも痛いほど 分かります。日く「余震が頻繁である」「東電、政府の発表する原発事故の内容が信用出来ない」など等。

この間の葛藤は実に辛いものでした。「帰って来れないかも知れない」、「己の命を犠牲にして、支援はあり得ない」などの散文がメモに残っています。

平成23年3月30日、派遣期間を4月20日(水)~4月22日(金)とする内容のFaxが届きました。決まった。緊張の糸がすっと緩んだのを覚えています。震災発生より19日目のことです。

テレビ、ラジオ、新聞、ネット等マスメディアの報道は毎日以下の如くであった。『現地の如何に悲惨なるものか』、そして『その悲惨さの中に辛うじて一筋の明かりが見え』、また 『明るく輝こうとしている者は僅かである』。私の頭の中は瓦礫で埋めつくされ、東北の全ての町が破壊されていきます。現実と報道の区別がつきません。緊肢が続きます。と同時に 開き直ったかの勇気が湧きます。太平洋戦争末期の神風特攻隊の如き心情であった、と誤解を恐れず申し上げます。

平成23年4月20日(水) 、朝9時伊丹空港よりJAL便にて山形空港に午前10時過ぎに到着。曇り。ややひんやりとしている。この度のH班は班長小高先生(県医師会理事) 、久保先生 (川西市医師会) 、深森先生、石井先生、そして小生(以上明石市医師会) の5人が担当した。山形空港より仙台経由で石巻に入ります。ワゴンタイプのタクシーです。我々医師以外に事務官 2名が同乗しております。皆、無口に時間が過ぎていきます。まるで何事も無かった様に、静かに時間が過ぎます。遠く蔵王の山々の頂には多くの残雪が見えます。高速道路の段差の少なさに 気づきました。地震は??

車中のスタッフにも聞く事が出来ず、帰って知ったことですが、NEXCO東日本は一週間で東北自動車道のほとんど全てを補修してしまった。とのことです。

石巻市まで3時間の道のり。途中車中でお弁当を頂きました。被災地の物とは思えない美味しいお弁当でした。さぞかし、キツイ仕事が待っている。嵐の前の静けさを匂わせる弁当だと 思いました。運転手さんが一言「右の田んぼまで、津波が来たよ」東北自動車道の盛り土まで津波が押し寄せ、盛り土で波が止まった。これはニュースでも見たぞ。田んぼの上には沢山の ごみが散乱しています。一方、東北自動車道の西側はまったく綺麗で何も無かったかのたたずまいで、そろそろ田植えの準備にかかっている所も見られました。

石巻市に着くまで殆ど被害らしき所が見受けられません。町の角々に家財道具らしき瓦礫が積まれている程度。阪神淡路大震災で見られたプルーシートが全く見られません。 倒壊した家屋も見当たりません。地震は??

そうです。もう震災から40日近くも経っているのです。震災当日は津波の為に、ここらー面も腰まで水に漬かり、大勢の方が自衛隊のゴムボートで救出された場所なのです。しかし、 その様な説明がなければ、何も無かったと錯覚に陥ります。震災避難所の石巻中学校に到着しました。

先陣のG班の先生方、事務官の方々が待っていて下さいました。簡単な申し送りが行われ、避難所救護室を経っていかれました。緊張の少なさに少し拍子抜けの感が無きにしもあらず。 そうです、もう震災から40日も経っているのです。
震災翌日から被災地に入られた先生方は、0泊3日であった。石巻港はまぐろの水揚げ港だが、まぐろではなくご遺体が毎日数百揚げられ検視がずっと続けられた。などの話が耳に 入って来ます。

この度の大震災は、かすり傷で済んだ方と津波で溺死された方が大半を占め、家屋倒壊などで重症になった方は少なかったようです。
平成23年4月20日より23日まで、石巻中学校に置かれた兵庫県医師会医療救護所を基点に医療支援を行いました。

石巻市は宮城県第二の都市で人口16万人、医療機関は70箇所。市街地の診療機関の1/3 が大きな被害を受けいまだ診療を再開出来ていない状況でした。我々兵庫県医師会救護班は、 再開されていない医療機関を支援するとの基本的立場を遵守し活動を行いました。
 私は外科が専門であり、一緒に行動して下さった久保先生は内科・泌尿器科のご専門でありますが、殆どの患者さんは急性上気道炎、気管支炎、感染性胃腸炎で、高血圧症、糖尿病などの 慢性疾患で投薬を希望される方が三々五々来られる程度でありました。

石巻中学校から数キロ離れた住吉中学校にも救護所があり、ここでは左大腿骨頚部骨折の女性を診察し石巻日赤病院に救急搬送致しました。救護所の中に居ましても患者さんは余り 来られないため、避難所の中を皆さんに声を掛けながら行ったり言ったり来たり。避難所の方からは『遠くから来て下さったんやね』と励ましの声を掛けて頂き、逆にウルウルした次第でした。

チームリーダーの小高先生以外4人は仙台市内のピジネスホテルに宿を取っていただき、ゆっくり休むことが出来ました。これも格別の計らいであったかも知れません。震災直後では、 シングルに三名。二名は寝袋、でありましたから。仙台市内は震災の跡形もなく復興が進んでいる様でした。そのお蔭もあり、東北大学の医療チームから嬉しい情報を頂くことが出来ました。 仙台で一押しの牛タンのお店を紹介して頂き伺って参りました。有難うございました。

全国から看護師の方も沢山来られています。県看護師協会、日本看護師協会から派遣されている方、或いは全くの個人ボランティアーなど様々な形で来られていましたが、ボランティアーの 方たちは一週間、寝袋で過ごされる方も大勢いらっしゃいました。敬服いたします。短期間ではありますが、このような方たちと心一つにして、震災支援に参加出来たことに感謝いたします。

斯様にして、三日間を無事過ごす事が出来ました。震災は?と不思議に思われる方がいらっしゃいますよね?そうなんです!我々が活動していた場所直ぐひとつ丘を越えた所に北上川が 石巻湾に流入しています。桜がきれいな、日和山より北上川が見渡せます。例年であれば沢山の方が河の流れを楽しみ、さくらを愛で、お酒を飲み交わすのでしょう。今年はさくらだけが 寂しく、しかし美しく、何事も無かったが如く咲き誇っていました。

来年は流された町も復興し、残された人たちも平穏を取り戻し、元の活気ある石巻になっている。その様な風景が脳裏に浮かびました。