東日本大震災被災地支援活動報告

■ 深森 史子 先生「石巻活動報告~石巻中学校で始業式~」
<4月20日(水)~4月22日(金)>

兵庫県JMATに参加してきました。参加チームは第15陣(4月20日午後~22日午前) 。東日本大震災発生から42~44日目。時期としては災害急性期、亜急性期を過ぎ慢性期の段階でした。 石巻では仮設住宅の抽選申し込みも始まり、慢性期から自立復興期へ向かう狭間のようにも感じました。

初日は伊丹から山形空港へ飛びました。4月も半ば過ぎというのに山形は桜がちらほらで遠景の山にはうっすら雪化粧が見られました。東北に来たのだわ、と感じました。山形空港で 兵庫県各地から集まった医師、看護師、事務員で構成された第15陣メンバーはジャンボタクシーに乗車し石巻へ向かいました。仙台市に入り高速道路を走っていたのですが、道路の海側は 津波の被害で建物は損壊し瓦礫が散乱、あちこち水が引き切っていない場所もありました。一方山側を見ると、建物や道路の損傷もなく地震や津波があったことを感じさせない光景でした。 高速道路を挟んで山側海側で景色が全く違うことに驚きました。仙台市内から渋滞があり3時間かけてお昼頃に石巻中学校へ到着しました。道中は地震により道路が凸凹していた事や被災地へ 行く緊張も重なり予想よりも疲労を感じました。石巻中学校へ到着し、第14陣メンパーと対面で引き継ぎができました。

翌日、翌々日は朝6時20分に仙台市内のビジネスホテルを出発し、帰りは夜9時ごろにホテルに到着していました。二泊三日の間、日々医療ニーズや指示が変更することがありました。

私たちが参加した時期は避難所5か所で巡回診療を行いました。避難所によって環境がかなり異なることに気づきました。避難者達の中でリーダーシップをとれる人間がいると清掃や食事の準備、 物資配給なども統率が取れていましたが(それでも避難所生活は大変なストレスです。プライパシーもない、お風呂もない、高齢者は洋式トイレがなくて非常に不便でした。これは恐らく経験しないと わからない相当のストレスだと感じました。)、リーダーシップを取る人がいない避難所では衛生環境や物資調達や配給の偏りが見られました。

石巻中学校には約500人の被災者がおり、体育館、 すべての教室で避難生活を送っていました。私が石巻中に到着する数日前に石巻市役所から石巻中の被災者の方に向けて別の避難所に移動するように説明がありましたが、被災者の方から猛烈な反発が あり石巻中学校の被災者の移動、避難所閉鎖は白紙になりました。(この後、5月連休中に教室で生活している避難者は山下中学校へ移動となりました。)こうした問題は仮設住宅や集団移住、 そして再雇用を急がなければ乗り越えるのは難しい課題だと思いました。

また私が巡回診療で会った女性からは「私は震災があって、ここに来たけどね、食事が毎日パンやおにぎりでしょう? 体重が増えてしまってねー。こんな風になっちゃって困ったわ。」と、お腹の肉をつまんで冗談まじりにおっしゃっていました。実は今回の震災は慢性期に入ると物流システムがある程度復旧して 食糧供給がありますが、炭水化物が多く野菜が不足し、特に沿岸部の人たちはよく食べていた魚も食べることができず、かなり栄養の偏りがあります。また避難所で寝起きするだけで運動不足が続いており 生活習慣病が悪化してました。

それから、東北の人たちは、控え目な人が多いので救護所まで積極的に受診されるケースは少ないようでしたので、看護師と一緒に体育館や公民館などを巡回し声を かけて回りました。そうしてやっと「実は眼鏡が震災で壊れてしまって困ってるんですよ…」という方や「1週間ほど前の巡回診療で白内障の目薬を処方してもらったけど、目薬がまだ届いて ないんです。」と言った方を発見しました。救護所以外の避難所を巡回診療する場合、薬剤がありませんから自分で救護所から点眼楽を持参して処方を診療録に記載した後、手渡していました。 実は薬剤処方については巡回診療で医師が処方し、後で薬剤を届けてもらうシステムが出来つつある時期でした。しかし、こういった混乱の最中では前述のように診察、処方をされても受診者の手元に 点眼薬が届かないことがわかり、点眼薬は自分で直接手渡していくことにしました。そして医療機関も徐々に復旧再開していたので、今後はかかりつけ医へ受診するように説明をしました。救護所から 地域医療機関への橋渡しを始めるタイミングでもありました。

今回は3月11日大震災発生後、救護のために初動から何度も石巻に来られて救護活動のシステム化を図って頂いた県医師会執行部の先生方がいらして避難所の状況や変化を教えて頂き大変 ありがたかったです。支援活動はシステム化が非常に重要だと感じました。そうでないと現地に行っても混乱していますから、具体的にシステム化していないと何をどうすればいいのか、 よくわからないまま右往左往し、非効率になってしまう事もあると感じたからです。これは私にとって世界中で活躍している支援団体の活動について関心が深まるきっかけとなりました。

眼科医としての活動については準備物のこともあり出発前に先陣の眼科医の先生に電話にて引き継ぎを行いました。さらに石巻日赤眼科の高橋先生、涌谷町の角野先生ともメール連絡し、 眼科薬剤、コンタクトレンズ(以下CLと略) 等の支援物資の在庫状況を教えて頂きました。受診内容は津波で流されたCL・老眼鏡処方、アレルギー性結膜炎、ドライアイ、震災で通院できなくなり 伸びたさかまつ毛を抜いて欲しい等です。一番希望が強かったのが白内障予防薬の処方でした。不急の点眼薬ですが、ただでさえ不安な避難所生活が益々不安になっている方も見られました。

避難所の状況ですが私たちが活動していた間(4月21日) に石巻中学校や周辺の小中学校で始業式がありました。友達と会えて嬉しそうな生徒や保護者の方を多く見かけました。 少しずつ日常を取り戻し、確実に前に進んでいるという大切な節目の一日だったと感じました。そして復路は石巻から運行再開した仙台空港へ。途中、高台にある日和山公園に寄りました。 公園はたくさんの桜が植樹されていて桜も咲き始めていて春めいていました。しかし眼下に広がる沿岸部は石巻市民病院だけが孤立するように建っており、その周囲は建築物がほとんどなくなっていました。 ヘドロと瓦礫だらけの平地が広がっていました。そして瓦礫を撤去する重機の音と、往来する車の音だけが聞こえてきました。私は、思わず手を合わせ鎮魂のお祈りをしました。 桜咲く日和山公園から見た光景はあまりにもむごい光景だったのです。

仙台空港周辺は津波被害を受けた車が山積みで、自衛隊災害車両が往来し異様な光景でした。そして仙台空港へ到着すると後は一路伊丹への空路でした。

因みに鳥取の支援チームは車で日本海側を通り1日半かけて石巻へ来たそうです。往復だけで3日間かかると聞いて私は驚きました。福島原発事故があったため日本海側を通り、できるだけ 安全な経路で石巻へ向かう対応が取られたそうです。今回、石巻に救護支援活動に来た人々は新潟、鳥取、山形、沖縄、岐阜など日本全国からの参加でした。

最後になりますが、一緒に活動して下さったチームの皆さんを始め関係者すべての方に心より深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました。また医療政策の原点を学ぶことが できました。そして東北、関東地方の被災した地域に必ず明るい未来がやって来ることを強く祈り、最後の言葉とさせて頂きます。

(写真1) (写真1) 石巻中学校2階にある救護所の様子。
写真中央から右側にある付箋がついた棚が薬棚。「これでも随分と整理された方ですよ。」と先陣のスタッフが教えてくれました。薬剤や物資は 山積みでしたが、必要な時にすぐ取り出せるような感じがしませんでしたので、私が救護所に到着してすぐに行ったことは、薬棚にある眼科薬剤の場所・在庫確認とメガネ、コンタクトレンズの 度数在庫確認でした。薬は整理されていましたので眼科薬剤の在庫確認はおかげですぐ済みました。

(写真2) (写真2) やっと再開した仙台空港。
羽田行き、伊丹行きのみ4便運行していました。暖房はなく非常に寒かったですがチェックイン後に毛布と暖かいお茶、お菓子が配られてとても有り難かった です。仮設トイレは一か所のみ。チェックインするとトイレはありませんでした。